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瞑想の対象は好きな神仏の御姿を自由に選んで良い。
2023-02-21 Tue 09:03
「【瞑想の対象】として私の姿を選ばなかったら私が怒るなどと思ってはならない。そうしたことは一切気にもとめない。

【励ましを与えてくれる御名や御姿を選ぶ完全な自由があなたにはある】」

 1958年2月23日の御講話
 ―サティヤ サイババ


「エーカム サット ヴィプラー バフダー ヴァダンティ」

(絶対者なる者は一つである。しかし賢者はそれを異なる名前で呼ぶ)

 『ヴェーダ』


「クンティーの息子(アルジュナ)よ、

他の神々の信者でも、真心をこめて清らかな気持ちで信仰する者たちは、
教令によってではないが、
実は【私】を礼拝しているのである。

なぜなら【私】は全ての祭祀の享受者であり、主宰者であるからだ。

しかし彼らは真に【私】を知らない。そこで、彼らは(人間界に)堕ちるのである」

 『バガヴァッド ギーター』(9−2,3、24)


「【至高者は、それぞれの人のカルマ(過去の行為による影響)や傾向(ヴァーサナー)に応じて、様々な名前や形で崇拝されています】。

【あなたが信じる【彼】の名前と形に対して】、

【誠実に、熱意をもって】、
【心から助けを求めてください】。

【至高者】は、【我が子が悲しみに沈んでやるせない涙を流し、自分に助けを求めているのを見て、無関心でいることはできません】」

「【巡礼者の数だけ異なった道があります】。

【彼】(神)は【全ての巡礼者に適した道を用意します】。

【至高者は、それぞれの人のカルマ(過去の行為による影響)や傾向(ヴァーサナー)に応じて、様々な名前や形で崇拝されています】」

 ―アーナンダマイー マー


「【信仰が深まれば、いかなる宗教、階層、肌の色、国籍、貧富の差も存在しないと分かります】」

「【神は教会から離れてはおらず、全ての場所におられ、全てのものの中におられ】、
【私たちはヒンドゥー教徒やイスラム教徒、キリスト教徒であっても皆神の子供なのです】」

「私は人を改宗させています。より良いヒンドゥー教徒へ、より良いイスラム教徒へ、より良いプロテスタント教徒へ人を改宗させています。

【人が神を見出すと、神をどう礼拝するかは個人の自由なのです】」

 ―マザー テレサ


「私のやり方は極めてユニークなのだ。
この話 一つを覚えておけば非常に役に立つ。

【真我(アートマン=真の私)についての認識を得るためにはディヤーナ(瞑想)が必要だ】。

【ディヤーナを絶えず行っていれば、ヴリッティ(心の波立ち) は鎮まる】。

【一切の欲望を捨て、あらゆるものに内在する神を瞑想しなくてはならない】。

【心が集中すれば目標に達することができる】。

{{【智識の権化】であり、【意識】であり、【至福】である、

【無相の私の本性に常に瞑想していなさい】}}。

{{【もしそれができなければ、ここであなたがたが昼も夜も見ている私の姿を、頭から足の先まで瞑想しなさい】。

【それを続けていればあなたの心は一点に集中し】、

【ディヤタ(瞑想者)とディヤーナ(瞑想)とディエヤ(瞑想の対象)の区別は失せ】、

【瞑想者は意識そのものとなり】、
【ブラフマン(絶対実在=神)と 一体となる】}}」

 ―シルディ サイババ


「【形、つまり神様の色々な形を疑うなよ!】
【形ある神様を信じろ】。

それから【その形の中で一番好きな形を瞑想しろ】。

分かっているか?
【この世の快楽に気がある間は、神様に会いたくて命がけになることはできない】。

子供がおもちゃで夢中になって遊んでいる時は、お菓子をやっても一口かじるだけ。

【おもちゃにもお菓子にも飽きた時には、『お母さんのとこに行くー!』と言う】。

もうお菓子にも見向かない。
知らない人が『お母さんのとこへ連れて行ってあげよう』と言ってさえ一緒についていくだろう。

【母親の所へ連れて行ってくれる人なら誰とでも一緒に行くだろう】。

【この世の経験を通り抜けたら、その時は神様が愛おしくて命がけになる】。

【『どうやったら側に行けるか?』
その事ばかり考えるようになる】。

【神様の話なら誰のでも聞きに行く】」

「【こう思ってはいけないよ。つまりこれだけが正しくて他のはみな間違いだなんて】」

「【私にはどの宗教を見ても皆一つだ】。

【全てはあの一つのものから出ている】。

【無性無相の実在であるあの御方が同時に形をもっていらっしゃるのだ】。

【様々な形になって現れていらっしゃるのだ】」

「【全ての宗派は同じ目的をもっている】。

ただ利己的な目的のためにい争っているに過ぎない。

真理のために熱心なのではなく、我が名、汝の名の故に熱心なのである。

【二者は同じ真理を説く】。

しかしその一方が言う。『あれは真理ではあり得ない。何故なら、その上に私の名の印が押していないからだ。だから彼の言うことを聞くな』。

他の一方も同じことを言う」

 ―聖ラーマクリシュナ


質問者「瞑想において、聖典を読んだり神の御名を唱えたりしながら心の中に神の御姿を想い描くべきですか?」

ラマナ マハルシ「【神の御姿を想い描くことは瞑想に他ならない】」。

質問者「神の御姿と共にマントラ(真言)の復唱、または神の属性について黙想するべきですか?」

マハルシ「【ジャパ(御名やマントラの復唱)が心の優勢を占める傾向にある時】、
【声に出して唱えるジャパは心の中で唱えるジャパになる】。

そして【それは瞑想と同じものなのだ】」。



「{{【名と形(御名と御姿)による崇拝】は、
【全ての名と形の向こうへ人を導く】。

【完全な献身は、ついには、至高の智識となる】}}。

{{初めは、バクティが世俗的な望みによって動機づけられてさえいても、
【望みが叶えられた時にバクティは止まない】。

【それは揺らぐことのない信仰によって増大し】、

【完全に成長し】、

【実現という至高の境地となる】}}」

「【どのようなプージャー(礼拝)も良いものだ】。

【オーム ラームや他のどのような名前も役に立つ】。

肝心なことは、【オーム、ラーム】、
【神という一つの思い以外の他の一切の思いを遠ざけることだ】。

【全てのマントラ(真言)、ジャパ(御名や聖なる言葉を繰り返し唱える)はその手助けをする】。

例えば、【ラームのジャパをする人は、ラーマ マヤとなる】。

【崇拝する者が、やがては崇拝されるものになるのだ】。

その時になって初めて、【彼は彼が繰り返し唱えていたオームカーラの完全な意味を知る】。

【我々の本質はムクティ(解脱=自由)である】。

しかし我々は、【我々が束縛されていると想像していて】、【我々がその間中ずっと自由であるにもかかわらず】、自由になるために様々な骨の折れる試みを行っている。

これは【我々がその段階に達した時にのみ理解される】。

{{我々は、【我々がいつも我々であったもの】、そして(今も)【我々であるもの】を得ようと必死に試みていたことに驚愕する}}」

「あなたは【ジャパ(御名やマントラを繰り返し唱える)】【を試みたことがあるかね?

【神や神の本質などについて考えたことは?】

もしそれを【感覚を通して表現せずに】【心の中で熟考するなら(マナナ)】、【それが瞑想なのだ】。

【心が帰依の中に溶け去るほどに、それを熱烈に求めなさい】。

樟脳が燃え尽きた時、後には何の燃えかすも残らない。

【心とは、その樟脳なのだ】。

【心が何の痕跡も残さず真我(アートマン)の中に消え去った時】、

【それが真我実現である】」

「{{【あなたの心を口として使い】、
【主ヴィシュヌのチャクラ(円盤状の武器)のように、ラーマという御名を心の中で途切れなく回転させなさい】}}。

【他の誰にもあなたがジャパをしていることを知らせないようにしなさい】」

 ―ラマナ マハルシ


「【あなたの心に神を祀り】、
【絶えることなく神を黙想しなさい】。

【どんな理由があってもその御姿を変えてはならない】。

【あなたは必ず神を悟る】」

「【最も好む御名と御姿のスマラナ(憶念)とディヤーナ(瞑想、坐禅)を、いつもの方法で続けていきなさい】。

【それによってあなたは一意専心(エーカーグラター)を得て】、【ハートの望み(解脱)を実現するだろう】」

「【既にあなたの親しんでいる方法で、あなたの選んだ神を崇拝し続けなさい】。

【私により近く、より近づいていることを知るだろう】。

【あらゆる御名が私であり】、【あらゆる御姿が私だからである】。

【私を見聞きしたからといって何を変える必要もない】。

それが私の言いたいことだ。
それはアヴァター(神の化身)とその意義についてシャーストラ(聖典)が述べていることでもある」

「この姿の神のほうが別の姿の神よりも勝れているなどと長々と議論する物知りの学者たちがいる。この種の迷妄は大きな害をもたらしてきた。

【それぞれの姿の神が、神の特定の側面を明らかにしている】というのが真実である。

【そうした比較をすること自体が、いかなる学者の品位をも損なう】。

【誰であれ神を深く敬う人であれば、神の力を頭で推し量ろうとはせずに直感的な神の体験を熱心に求める】。

【調和はあらゆる宗教的見解の試金石となる】。

もし特定の見解が憎しみや派閥争いや高慢をもたらすようであれば、それは間違いなく邪なものである。

【あなたがたがサーダナ(霊的修練)に関心があるのなら、これらの見解には近づかないようにしなさい】」

 ―サティヤ サイババ

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呼吸保持(クンバカ)は信仰によっても発動する。(求道者必須)
2019-08-03 Sat 08:26
「【心が静かに定まると息も定まる】。

【クムバカ(クンバカ=プラーナーヤマにおける呼吸保持)になる】。

【このクムバカは信仰のヨーガ(バクティ ヨーガ=神を愛する道)でも起こる】。

【信仰によって呼吸が静まってくるのだ】。

{{『ニタイ アマル マタ ハティ』(私のニタイは狂った象のように踊る)、『ニタイ アマル マタ ハティ』、

【こう言ってるうちに霊的な気分になってきて、歌詞を全部発音できなくなって、ただ『ハティ』(象) だけになり】、

【その後は『ハ』だけになって恍惚の内に息は抑えられる】}}。

クムバカになるのだ。

(※【ニタイ】→ニッティヤーナンダ。聖チャイタニヤの弟子。聖チャイタニヤとニッティヤーナンダは、ゴウラーンガとニタイの愛称でしばしば呼ばれる)

ある人がホウキで庭を掃いている所へ誰かが来て、『ああ、誰それはもういないよ、死んでしまったんだ!』と言う。掃いている人はそれが身内の者でなければそのままホウキを使いながら、『そうか、あの人も死んだか。いい人だったのにな』と思うだけ。

これがもし身内の者が死んだという知らせなら ホウキを投げ出して、『エーッ!』と言って座り込んでしまう。

【この場合も息が静止してしまうのだ】。

【他の仕事も手につかず考えることもできない】 。

女たちの間で見たことないかね?
誰か一人がびっくりして何かを見ていたり聞いていたりすると、他の女たちが『あんたそんなに思いつめて、まあ』というのを。

【この場合も息が静止して、物も言えず口を開けたままだ】」

 ―聖ラーマクリシュナ


※【プラーナーヤマ】(呼吸制御)
→【レーチャカ】(呼気)、【プーラカ】(吸気)、【クンバカ】(呼吸保持)。


🌹✨🌹✨🌹✨🌹✨🌹✨🌹✨🌹✨🌹✨


ここでラーマクリシュナがクンバカについて 話しているが、何を言っているのか分からない人もいるかもしれない。

クンバカつまり 呼吸の保持 について語っているのだが、これは 精神を集中させて神、仏あるいは真我(アートマン、真の私)に没入するためにとても大事なことを言っているのである。

呼吸が静まり、ほとんど 無くなってしまうほどになると、

瞑想はより深く、深くなっていく。

以前このブログの記事にも書いたことがあるが、ジョーは以前このことを知らなかったので、20歳ぐらいのとき初めて このクンバカ(呼吸保持)が起こり息がほとんど止まってしまったときは非常に驚いた。

部屋で独り坐り、呼吸に合わせて「ソーハム」(私は【それ】(神)である)「ソーハム」と繰り返し念じながら瞑想していると、だんだん呼吸が小さく細くなっていき、ついにほとんど止まってしまったのだ。

息が止まっているのに全く苦しくもない、極めて不思議な状況になった。

その時、意識は 非常にクリアで身体意識や部屋にいるという空間の感覚が曖昧になり、宇宙を漂っているかのような、全ての境界が無くなったかのような感覚になった。

あまりのことに、ジョーは自分が本当に生きているのか分からなくなって胸に手を当てて鼓動を確認したのを覚えている。

それから後になって、深い瞑想に入った時はしばしばこういう状態になるということを知った。

これは精神が極めてリラックスした状態で、同時に身体も極めてリラックスした状態 にあるため、呼吸によってエネルギーを得る必要が極限まで少なくなっているという状態 なのだと教えられた。

瞑想あるいは座禅をある程度経験したことのある人なら分かると思うが、

呼吸が荒かったり乱れている時 は集中することもできず、深い瞑想に入ることは不可能だ。

つまり神や仏に 没頭するためには安定した静かな呼吸が必要不可欠なのだ。

それはまた逆も然りで、何かに 強く集中していると度々呼吸が止まることがある。

ジョーは幼い頃からお絵かきが大好きだったのだが、よく周りの人から「息してないよ」と指摘されていた。

後から思えば、それだけ 集中していたために呼吸を忘れていたのだろう。

また、美大に通っていた友達が 教えてくれたんだが、「線を滑らかに引くためには息を止めると上手くできる」と先生に教わったのだという。

やはり 呼吸を小さくすることは集中を助けたり、心身をリラックスさせる働きがあるのだろう。

ラーマクリシュナは人が非常に驚いた時などに 息が止まるということを指摘している。

日本語で言うところの「ハッと息を飲む」というやつだ。

これはあまりの驚きに頭が真っ白になる、つまり何も考えられなくなった時に 息が止まることを言っている。

何も考えないということは無心、無我、無念無想、すなわち禅の境地である。

そういう時、修行をしていなくとも人は呼吸が 制御されているということだ。

この心と呼吸の関係を知っておくことは全ての霊的探求者にとって非常に有益であるだろう。


「プラーナ(気)の制御、すなわちプラーナーヤマは、

【この宇宙全体を『実在しないもの』と見なす者にのみ可能だ】。

【あなたは一切がブラムハン(絶対実在=神)であり、それ以外の何物でもないと考えなければならない】」

 ―サティヤ サイババ


「ある人は吸気、呼気、呼吸の保持という呼吸制御を行うかもしれない。

(※【プラーナーヤマ】(呼吸制御)
→【レーチャカ】(呼気)、【プーラカ】(吸気)、【クンバカ】(呼吸保持))

別のタイプの修練をする瞑想者は、心の制御をするにあたって呼吸を制御し、

【結果として呼吸停止が自動的に起こる】。

【呼気と吸気をただ見守ることも呼吸制御となる。(cf:座禅、坐禅)】

【これらの方法は一見三種類(探求、信仰、呼吸制御)あるように見えるかもしれないが、実際は一つだ】。

なぜなら、【それらはみな同じ目標に達する】からだ。

それらは探求者の成長段階とその人の性質や精神的傾向に従って採用される。

{{しかし実のところ、【修練方法は二つしかない】。

それが【真我探求】(アートマ ヴィチャーラ)と【バクティ】(明け渡し、全託、神への愛、帰依)である。

【どちらも一方がもう一方へと導く】}}」

「{{鳥が猟師に網で捕らえられるように、

【息を内に留めることで心は制される】。

【この仕掛けは心の吸収をもたらすだろう】。

なぜなら、【思いと行いに表わされる心と生命、
すなわち思いと行為をその機能として持つ心と生命は】、

【一本の木の二本の大枝のように分かれているが、
それらは共に、ただ一本の幹から生じているからだ】。

{{【心の制圧は二つの方法により実現される】。

【吸収と消滅】。

【吸収された心は再び蘇るが】、

【破壊されている心はもはや二度と復活しないだろう】。

【なぜならそれは死んでいるからである】}}。

{{【呼吸の抑制を手段としている時】、
【心は制御されている】。

【その時に、それを一つの流れに注げ】。

それが達成されたなら、

【心の形は、その時、完全に消え去るだろう】}}」

「呼吸の制御は内的なものでも外的なものでもあるだろう。

【アンタハ プラーナーヤマ】(内的調息)は次のようなものだ。

【ナーハム チンター】(私は身体ではない)はレーチャカ(呼気)。

【コーハム】(私は誰か?)はプーラカ(吸気)。

【ソーハム】(私は【彼】=神)はクンバカ(呼吸保持)。

【こうすることで、呼吸は自動的に制御される】。

バヒル プラーナーヤマ(外的、一般的調息)は、心を制御する力のない者のための方法だ。

しかし、{{【サット サング】(神聖な交わり)ほど確実なものはない}}。

サット サングを持てない者にとっては、外的な修練が欠かせないだろう。

(※【サット サング】
・聖者や敬虔な者との交際。
・【サット】(実在)、すなわち絶対実在(=神)との交わり)

{{もし【サット サング】において、他の人の目には見えなくても、【サット】(実在=神、聖者=覚者)が【必要な力をあなたに与えたなら】、

ハタ ヨーガが指示する通りのプラーナーヤマをしなくても構わない}}。

{{【ジャパ】(神の御名やマントラを繰り返し唱える)、【ディヤーナ】(瞑想)、【バクティ】(神への愛、信仰)などを修練したなら、

【わずかな呼吸制御だけで心の制御はできるだろう】}}。

{{【心は御者で、呼吸は馬である】。

【プラーナーヤマは馬を制する手綱である】。

【その同じ手綱で、御者も制されるのだ】}}。

プラーナーヤマは少しだけすれば良いだろう。

【呼吸を見つめることも一つの方法だ】。

【他の活動に注意を逸らされていた心は、呼吸を見つめることに専心する】。

【それが呼吸を制し、それから心が制されるのだ】。(※cf:坐禅)

【それができないなら、レーチャカ(呼気)とプーラカ(吸気)を修練する必要はない】。


【呼吸はジャパやディヤーナにおいて、しばらくの間保持されることもあるだろう】。

【それもまた、良い結果をもたらすだろう】」

「【呼吸の制御(プラーナーヤマ)】は、【特にグル(霊性の師)がいない時に、自分自身で修練を行っている人々に適している】。

【心の制御】は、【グルのような非凡な力が存在しているところで自然に発生するものだからだ】」

「【心も呼吸も、その源は同じである】。

【想念とは、実は心の本性である】。

【『私』という想念が心の最初の想念であり、それが自我性である】。

【自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる】。

そのため、【心が静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も制御される】。

深い眠りの中では、心は静かでありながら呼吸は止まっていない。

これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人々が思わないようにとの神の意思によるものである。

目覚めの状態とサマーディ(三昧)にあっては、【心が静まっていれば呼吸は制御されている】。

【呼吸は心の粗大な姿である】。

【死の時までは、心は身体の中に呼吸を保っている】。

身体が死ぬと、心は呼吸と共に出て行く。

それゆえ、【呼吸を制御する修練は心を静める(マノニグラハ)助けに過ぎず】、

【心の消滅(マノナーシャ)をもたらすことはない】」

「【真我探求やバクティ(信仰)が適さない人の場合】、

【自然に静けさをもたらすプラーナーヤマ(気や息の制御)を試みるとよいだろう】。

【これはヨーガ マールガ(ヨーガの道)と呼ばれるものだ】。

【もし生命が危険にさらされれば、生命の救出の一点に全ての関心が集まるだろう】。

【もし呼吸が抑制されれば心はゆとりを失い、外的な対象物に飛びつくこともなくなるだろう】。

このように【呼吸を制御している間は、心も落ち着いている】。

【全ての注意は呼吸と、その調整に向けられ、他の物事に対する興味が失われるからである】。

【熱情には乱れた呼吸が伴うが、穏やかな幸福には、ゆっくりとした規則正しい呼吸が伴う】。

【激烈で発作的な喜びには、苦痛と同じように痛みがあり、そのどちらにも乱れた呼吸が伴う】。

【真の平安こそが幸福なのだ】。

【快楽が幸福をもたらすことはない】。

【心は修練によって改善され、革砥(かわと)で研がれたカミソリの刃のように鋭くなる】。

【そうすることで、心はよりいっそう内的または外的な問題に取り組めるようになるのだ】」

 ―ラマナ マハルシ



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感動の文字化。
2019-07-12 Fri 02:28




音声入力してたらうっかりこうなった

聖なる魂たちの言葉を勉強しているときのジョーの口癖

「素晴らしいね」
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慈悲の瞑想、慈・悲・喜・捨。
2018-10-19 Fri 07:29
仏教の教えの中心において、古くから説かれてきた「慈悲」。さまざまな瞑想法が実践される現代社会において、この慈悲を実践する瞑想法があります。

「メッター・バーヴァナー(慈悲の瞑想)」として知られるこの瞑想法は、仏教の精神を伝える重要な瞑想法の一つとして、現代では広く実践されています。

パーリ語で、メッター(サンスクリット語でマイトリー)は「慈」、バーヴァナーは「瞑想」を意味します。

心の望ましいあり方とされる「慈・悲・喜・捨」を、自分、親しい人、そして生きとし生けるものすべてへと広げていくこの瞑想法では、

例えば、「私が幸せでありますように」から、「親しい人が幸せでありますように」、そして「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、慈悲の心を広げていきます。

この瞑想法は、他者だけでなく、自分自身の心を慈しむ、何よりも優れた術の一つです。

変化の激しい現代社会において、めまぐるしく沸き起こる思考に、心が疲れることも少なくありません。

そんな時、他者へと広がるこの瞑想法は、自分自身の心にこの上ない大きな幸せを与えてくれることを実際に強く感じています。

「心が純粋で清らかであるのなら、幸せは、影のように決して離れることはない。」

そう述べる仏陀は、人間は自分の考えたようにしかならないという事実を伝えてきました。

慈悲を実践する時、自分自身の内には常に、確かな幸せがあることに気がつきます。

インドに伝わる数々の教えも、他を思う重要性を説いてきました。苦しみは、「私」が中心となり、全体から離れた存在であると思うことから生まれるといわれます。

慈悲の瞑想によって、意識的に自分自身を全体と繋ぐことで、個は大きな安らぎに包まれていきます。

心が疲れた時、慈悲の瞑想を行ってみるのも良いかもしれません。そうして意識的に全体と繋がり、清らかな思考を生み出すことは、自分自身に幸せをもたらし、周囲を慈しむ、何よりも優れた行いとなるはずです。

(文章:ひるま)



引用元・シーターラーマのブログ
http://blog.sitarama.jp/?p=5773


◆概要

「彼は、慈をともなう心によって、一つの方角を満たして住します。そのように、第二の〔方角を〕。そのように、第三の〔方角を〕。そのように、第四の〔方角を〕。かく、上を、下を、四維を、一切処を、あまねく全世界を、広大で、偉大な最上性あり、無量の、怨なき、瞋なき、慈をともなう心によって、満たして住します。」[15]

◆方法

以下に挙げたように、この瞑想法では、まずは自分一身に対して慈・悲・喜・捨を念じつづけ、次第にその対象をひろげていき、最終的には「生きとし生けるもの」へと思いを広げていくという方法をとる。

(wiki)



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「あたかも母が独り子を命を賭けて護るように、

一切の生きとし生けるものに対して無量の慈しみの心を起こせ。

また、全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こせ。

上に下に横に障害なく、怨みなく、

敵意なき慈しみを行え。

立ちつつも歩みつつも座しつつも臥しつつも、眠らないでいる限りは、

この慈しみの心づかいをしっかりと保て。

この世では、この状態を【崇高な境地】と呼ぶ。

諸々のよこしまな見解に囚われず戒めを保ち、

見るはたらき(識別心)を備えて諸々の欲望に関する貪(むさぼ)りを除いた人は、

決して再び母胎に宿ることはないであろう」

 ‐最古の仏典『スッタニパータ』(「蛇の章」149~152)


「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」

 ローマ人への手紙(2‐15)


「【人であろうがなかろうが、どのような生き物があなたのもとへ来ようとも、思いやりを持って扱え】。

【富の重みの虜となるな】。

【人の内に神を見よ】。

【人々に怒鳴るな】。

【攻撃的になるな】。

【そうでなく、他者の不平を耐え忍べ】。

【自らと他者、あなたと私の間には分離の壁がある】。

【この壁を破壊せよ!】

【飢える者に食を、渇く者に水を、裸の者に衣を与えよ】。

【その時、神は喜ぶ】」

「【他者の幸運によって、我々が何を失うのか?】

【彼らと共に祝おう】。

【もしくは、彼らを見習わんとして励め】」

 ―シルディ サイババ


「{{【自分の幸福と、この世界の幸福を融合させなさい】。

【隣人が悲しんでいる時、どうしてあなたが幸せでいられるのだろうか?】

それゆえ、私はあなたがたに求める。

【自分自身が良くなるために祈るのはやめなさい】。

地域や肌の色に関係なく、

【人類すべての平和、繁栄、幸福のために祈りなさい】}}」

「【世界の平和を祈りなさい】。

{{自分や家族、友人の平和だけを得ようという【利己的な目的】で祈ってはならない}}。

【平和は、『世界の全ての人が幸せでありますように!』という祈りにある】。

【万物の福利と繁栄のために祈りなさい】。

【あなたの幸せは私の幸せである】。

【あなたがた全員が平安に達し、神を黙想するとき、私は平安と至福に満たされる】。

【あなた自身とあなたの家族の平安を望むだけでは不十分だ】。

【全世界の平安を切望しなさい】」

 ―サティヤ サイババ


「いいかい、【慈悲(ダヤー)と愛着は別なものだよ】。

【愛着というのは、自分に属していると思っているものに対する執着だ】。

例えば、父さん、母さん、兄弟、妻や息子などを可愛いと思う気持ちだ。

【慈悲(ダヤー)は全ての生き物を可愛がる気持ちのこと】。

【分け隔てのない公平な気持ちだ】。

【慈悲心のある人を見たら、神様のお恵みを頂いている人だと思え】。

【慈悲心から生きとし生けるもの全てに奉仕するのだ】。

【だが、愛着(マーヤー、迷妄)も神様から来る】。

愛着を通して、あのお方(神)は人を家族や縁者に奉仕させなさる。

けれども、よくお聞き。

【愛着は人を無知にしておいて、この世に縛り付ける】。

だが、【慈悲(ダヤー)は精神を清浄にする】。

そして、【だんだんと縛りをほどいてゆく】。

【心が清くならなければ、神様を見ることはできない】」

 ―聖ラーマクリシュナ



「【ジニャーニ(覚者)】は【何一つ真我(アートマン)と異なったもの、あるいは分離したものと見ない】。

【全てが真我の中にあるのだ】。

【世界が存在し、その中に身体があり、その身体の中にあなたが存在していると想像するのは間違いである】。

【もし真理が知られたなら】、

【宇宙も、その彼方にあるものも、ただ真我の中に存在するだけだということが分かるだろう】。

【視野は、その人の見解に従って異なるものだ】。

視野は目を通して得られる。

目はどこかに位置しているはずだ。

もし、あなたが粗大な目で見るなら、他の物事は粗大に見えるだろう。

もし精妙な目(心の目)で見るなら、他の物事も精妙に見えるだろう。

{{【もしも目が真我となるなら】、

【真我は無限であるため、その目も無限なものとなる】。

【そうすれば、真我と異なるものを見ることなどなくなるのだ】}}」

「神は愛の実際の姿である」

「【真我の本性である愛を知る人にのみ】、

【強く絡まった生のもつれは解きほどかれる】。

【愛の高みに達した人にのみ、解脱は成就される】」

 ―ラマナ マハルシ


「(無私の行為の)ヨーガ(カルマヨーガ)に専心し、

自己を清め、心と感覚を制御し、

自己が万物の自己となった人は、行為をしても汚されない。


真のヨーギは万物の中に自己(アートマン)を見、また自己の中に万物を見る。

まことに真理を悟った人は、一切を平等に見る。


一切のうちに【私】を認め、【私】の中に一切を見る人にとって、

【私】は失われることなく、また 【私】にとって彼は失われることがない。

彼は常に【私】と共に在る。


全ては一つという一体性に立って万物に遍在する【私】を愛するヨーギは、

【私】を常に礼拝する者であり、

どこにいても、何をしても、【私】の中に住み 【私】と共に在る。


全ては我が身のこととして、

他者の悲喜を我が悲喜として、

生きとし生けるもの全てを自己と見る人こそ、

アルジュナよ 彼は最高のヨーギである」(5‐7、6‐29~32)


「愛することのない者は神を知りません。
神は愛だからです」

 ヨハネの手紙1(4‐8)


「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。

そうすれば、主はあなたの道を真っすぐにされる」
 箴言(3‐6)
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三和由香利
2018-01-03 Wed 13:37


三和由香利 International Yoga AsanaChampion
https://www.youtube.com/watch?v=V7xWDJaAPxY&sns=em



これは美しい

これほどまでに静かに柔らかく動いて止まれるというのがすごい


『バガヴァッド ギーター』などの聖典や、マハートマたちのメッセージで、度々ヨーガという言葉が出てくるので、

ヨーガとは、このハタヨーガ(体操のヨーガ)を指すものと思い、これをやれば悟れると勘違いしてしまうのは、初心者にありがちな間違いだが

サティヤ サイババ、ラマナ マハルシ、ラーマクリシュナ、いずれも、実現のためにハタヨーガは全く不要であると述べている


だが、だからと言って、ハタヨーガをすること自体を禁じているわけではなく、疲れた時のリフレッシュなどにこれをやることは承認されている


そんなわけで、ジョーもあまりハタヨーガはやらないので、初歩の初歩くらいしかできないわけだが


この三和由香利のヨガを見ていて思うのは、

これだけの域に達するまでには、非常に大きな集中を培ってきただろうから、そういう意味では、直接的に実現の役には立たずとも、心がけ次第では良い修練になるだろうということ

まあ、それはどんな活動にも言えることだが

掃除でも料理でも、他のどんな活動や仕事でも

永平寺などの禅寺では、掃除は「動く座禅」と言われている


何かの番組で三和由香利が言っていたのだが、彼女は大会でヨガをしている時、結果を気にすることなく、委ねる気持ちでやっているそうだ

これは完全に、無私の行為のヨーガ、つまりカルマヨーガであり、

全託、明け渡し、お任せである


このような意識でやるのなら、当然ハタヨーガもサーダナ(霊的修練)になりうる

無私(無我、無心)のうちに行われる他の一切の活動と同様に


もしかしたら、彼女の内面のそういった美しさが、表現にも現れているのかもしれない


ジョーティが知っている限り、高い霊性の境地にある人というのは、

動作が静かで柔らかく優雅である

バタバタとがさつな人はいない





「捧げる行為は神、

供物は神、

それは神なる火の中に、

神によって投じられる。

神に捧げる行為に専心する者は、

まさに神に到達する。


神聖な意識の人は、

見ても、聞いても、触れても、

嗅ぐ、食べる、動く、眠る、呼吸などをしても 『私は何も為していない』と観る。


執着心を捨てて自らの義務を遂行し、

その結果をブラムハン(絶対実在=神)に献ずる人は、

蓮の葉が水に濡れないように あらゆる罪をはじいて 寄せつけない。


(無私の行為の)ヨーガに専心する者は、

全ての執着を捨て、

身体と心と知性を用いて様々に活動し仕事をするが、

それはただ 自らを浄化するためである。


(無私の行為の)ヨーガに専心する者は、

全行為の結果を捨てて究極の平安境に到達する。

(無私の行為の)ヨーガに専心しない者は、

行為の報いを求めて、カルマ(因果応報の法則、業)に縛られて絶えず不安である」

 『バガヴァッド ギーター』(4‐24、5‐8、10~12)
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